我が青春のコンピュータ


13 測量学のレポート3

PC-9801 VXのマニュアル

最後にヨシオが思い切って質問した。

「先生、僕の周りにはパーソナルコンピュータに詳しい人がいません。  もしよろしければ、パーソナルコンピュータに関する質問をお送りしてもよろしいでしょうか?」

ヨシオはこの授業を通じて、「パーソナルコンピュータ」が愛着を込めて「パソコン」と 呼ばれていることを知っていたが、ヨシオにとって見れば、それは愛着の持てるような代物ではなかった。

それはむしろ技術的にもコスト的にも彼にとっては”恐れ多い”製品であり、 とても「パソコン」などと呼べる気にはなれなかった。  第一、彼自身、まだ「パーソナルコンピュータ」の実物を見たことが無いのである。

先生はにっこりと笑った。

「いいですよ。 ただし、何が分からないが分からなければ、質問をすることもできません。  そこで、お願いがあるんですけど、私に質問したい人は少なくともコンピュータ用語辞典を購入して、 コンピュータ用語を確かめるようにしてください。 それと今日もやったように、 問題解決の糸口はマニュアルにあります。

マニュアルもご覧のように専門用語がたくさんありますから、 コンピュータ用語辞典で用語の意味をしっかりと理解して問題解決に当たってください。  それでもどうしても分からない場合は私に手紙を書いてください。

 ヨシオ君! これでいいかな?」

「ハイ! どうもありがとうございます!」

この3日間でコンピュータの能力の素晴らしさを見せつけられたヨシオは、 これまでのコンピュータに対する偏見をあっさりと捨て去っていた。  本来の勉強の傍ら、苦手ではあるもののコンピュータもしっかりと勉強してみようという 一種の覚悟のようなものが沸いてきたのである。

しかしながらヨシオはまだ1回生だ。 自分のクラス以外には友人も少なく、 周囲には実際にコンピュータに詳しい者などひとりもいなかった。

独学ではできる事にも限界があるだろうし、諦めてしまうことになるかもしれない。  先生の返事で、そんな不安が少しだけ和らげられた様な気がした。


ついに測量学の講義は終了した。

翌日は日曜日である。(当時は週休2日制ではない)

ヨシオはレポートの作成に取り掛かったのだが、どう考えても測量学を学んだという感じがしない。

コンピュータに関する授業と言った方が適切な内容であったことも間違いない。

そこでレポートには...

などなど...レポートと言うよりも、決意表明と指導のお願い文のような文章を書くこととなった。

後日、測量学の成績カードが戻ってきた。「優」である。 どうやら受講者全員が優を頂いたようだった。


当時のマニュアルと出版社

当時、パソコンを購入すれば、そこには数百ページ、場合によっては1千ページを越える分量のマニュアルが付属してきた。  コンピュータを理解するということは、まさにこのマニュアルを理解すると言っても過言ではなかった。

ヨシオに限らず、当時パソコンを学ぶ者は用語辞典を片手に膨大なマニュアルを読み耽ったものである。

当時も今と変わらず、マニュアルの読解は素人にとっては難解なものであったが、 メーカー側もパソコンを世に広めるために、様々な解説書を新興の出版社と一緒になって発行し始めた。  当時の出版社としては、 アスキーソフトバンク技術評論社翔泳社 などがあった。

これらの出版社の活動は、書籍の発行だけに止まらなかった。

早稲田大学の学生でありながら、 アスキーを設立した西和彦はその頃、 単身で渡米。 振興・無名のソフトウェア会社であった Microsoft社Bill Gatesと交渉し、 アスキーをMicrosoft社の極東地域総代理店として認めさせる。  そして、Microsoft社製のBasic言語をNECを始めとする主要メーカーに販売して大成功を収めた。  彼はその後、Microsoft社の副社長に就任する。

また、西はIBM社が 世界初の16ビットパソコンIBM PCを販売するにあたって、 Microsoft製のMS-DOSを 標準の基本ソフトとして提供することに成功する。  このとき、基本ソフトの開発に難色を示していたBill Gatesを説得して開発を推進させたのは西であった。  この成功は後に、同社がMS-WINDOWSを 開発するための大きな足掛りとなった。

ソフトバンクの孫正義は、 当時パソコンソフト最大手のハドソンと契約。  ソフトウェアの仕入れと販売を行い業績を上げる。  その後、1996年に米国Yahoo!社に出資。  合弁でYahoo! JAPANを設立する。  さらにその後は...皆さんご存知の通り。