ヨシオの下宿の窓から入り込んだ朝の光は、PC-1211の液晶パネルに反射して、 彼の額にその細長い輝線を映し出していた。
彼の机の上にはポケットコンピュータの他に付属する取扱説明書が1冊。 B5版の説明書の厚さは約1cm。 その他にも「プログラムライブラリー」と題された薄手の冊子も置かれている。
その中の記述は全く意味不明のカタカナ単語の羅列であり、 彼は早朝から明らかな嫌悪感を持ってそれらの物品と対峙していた。
取扱説明書の最初の方は読んでみて解らないでもない。 少なくとも「電卓モード」と「プログラムモード」と「実行モード」があって、 モードの切り替えは「MODE」キーによって行うというものだった。
「自分は電卓モードで上等だろう...プログラムモードなんて使う事ないだろうな...」
昨夜のうちに彼の腹は決まっていて、電卓モードに関する記述だけ読み進んでいった。
電卓モードの操作方法は単純と言えば単純である。
sin(30)+cos(30) を計算したければ、キーボードからその通りに入力して、 =の替わりに「ENTER」を押せばよい。
しかし...それにしても面倒くさい。
一般的な関数電卓ならば、sinキーやcosキーがあってキーを入力する回数は数回で済むのに このポケットコンピュータではアルファベットや数字を1文字ずつ押さなければ計算できない。
「何て非効率なんだろう!」と思いつつも、おぼつかないキータッチで 散々ミスを繰り返しながら、三角関数や統計関数の扱い方を一通り確認してみた。
「ちぇっ...何がコンピュータだ! それにしても面倒なものを買ってしまったな...」
電源を切るために「OFF」キーを押そうとしたとき、その近くにある「↑」キーが目に入る。
「これ何やろ...?」
興味本位でそのキーを押した瞬間、ヨシオは圧倒された。
何と先ほどまで苦労して入力した計算式が再び表示されたのだ! しかも「左向きの三角」キーを押すとアンダーラインが左に動いていく。 「ひょっとして...」と思ってそこに数字を打ち込むと、 物の見事にその数字が修正された。
「これは...!!」
ためらうことなく「ENTER」キーを押した瞬間、液晶画面には修正後の計算結果が表示されたのだ! しかも何回か「↑」キーを押すと、それまでに打ち込んでいた計算式を過去に遡って表示して修正することができた。
「こいつは全てを記憶している! これがコンピュータか!...」
このときヨシオは 「計算結果ではなく計算式そのものを記憶できる電卓」 としてコンピュータを捉えていた。 と同時に、明日から始まる測量学の講義に少しだけだが明るい見通しが持てそうな気がしていた。