インターネットが我が国に定着し始めた黎明の頃(といってもまだ10数年しか経っていませんが)、高知市内に住むパソコンをマスターできない一人の親戚が、驚くべきことにインターネットを徹底的に活用した例をドキュメントとしてまとめてみました。
ドキュメントと銘打っているものの、いささかの脚色はご容赦ください。しかし、このドキュメントの中に、これからの情報活用や生きる力のエッセンスが含まれているような気がして掲載しました。
一九九五年の年末。
「もう閉所するしかないかな・・・」
授産施設の木工科長のAさんは憂鬱(ゆううつ)だった。
ここ数年、施設で作る木工製品の売上げが落ち込んでいる。このままだと所員を他の施設に引き取ってもらって施設を閉所するしかない。
施設は、知的障害を持つ人たちに木工や理容の技術を習得してもらい、働く場を提供している授産施設だ。数十名の所員が木工製品を作って販売している。ところが売上が低迷して、多くの経費を行政からの補助金でまかなっているのが現状だ。
本当だったら、Aさんが施設の売上を伸ばすことを考える必要はない。本来そういったことは、もっと役職の上の人たちが考えることなのかもしれない。しかし、Aさんには一生懸命働く所員たちの姿がかわいくてならなかった。
「施設の所員とその家族たちのために、何とかこの職場を守らなくてはならない。」
そういった想いを胸に秘めながら、Aさんは木工の技術指導の傍ら、市内の取引先を営業に回る日々が続いていた。
営業といっても、簡単に仕事がもらえるわけでもないし、商品が売れるわけでもない。もともと大工さんだったAさんは、あまり営業が上手ではないのだ。
そんなAさんの目に飛び込んできたのが新聞の記事に掲載された「インターネット」という見慣れないカタカナ単語だった。
世界中のコンピューターを電話線で結んで、店舗がなくても、営業マンがいなくても世界中の人々に商品を売ることができる。
はじめはインターネットに疑いの目を持っていたAさんだが、これまで商品を売るために高知市内の隅々まで営業に駆け回り、その結果が散々だったAさんにとって、インターネットは何か『打ち出の小槌』のような可能性を持つものとして映った。
ところがである。当のAさんはコンピューターの知識がまったくと言ってよいほど無い。
それでも、インターネットのホームページを作って、何とか全国に木工製品を販売することができたらと思い描くようになった。
意を決してパソコン教室に通い始めた。しかし、あのキーボードやマウスと呼ばれる装置にはどうしてもなじめない。おまけにローマ字の読み方すらおぼつかない。教室の先生からは、「劣等生」の扱いまで受ける始末である。
「このままパソコン習いよっても何年かかるかわからん!世の中にはコンピューターの技術に詳しい人はいっぱいおる。そんな人に協力してもらいながら、何とか近道ができんもんやろうか・・・」
技術という大きな壁に直面したAさんの眠れない一夜が過ぎようとしていた。
「Kが高知にもんて来ちょるらしい」
「どこにおるがぜよ?」
KはAさんの甥にあたる。彼は大手情報機器メーカーを退職して独立し、Uターンで戻ってきたようだ。これまで、何件かのホームページの企画や製作にも携(たずさ)わった経験があるようである。
Aさんから事情を聞いたKは、おもむろに質問した。
K 「最終目的は『商品の売上アップ』ですよね?」
コンピューターの技術的なことを聞かれるのではないかと不安に思っていたAさんの耳には、予想外の質問だった。
A 「そりゃそうやけんど、パソコンはそれなりに使えるようになっちょかなぁいかんろう?」
K 「売上を伸ばすためには、Aさんには必要最小限度のパソコン操作技術があればいいと思います。おそらく、キーボードで文字が入力できることと電子メールをやりとりできることぐらいです。それよりも、もっと大事なことを考えておかないと、ホームページを作っても失敗しますよ。」
A 「はぁ???」
K 「情報化社会といっても、コンピューターがすべてやってくれるわけじゃありません。自分が表現したいことを、いかにわかりやすくまとめて、それをどのように伝えていくか・・・それはパソコンを使わなくても、Aさん自身が取り組まなければならないことです。
Aさんにとって、自分のところの商品の魅力は何でしょうか? そして、その魅力が、お客さんにちゃんと伝わっていますか?
情報を整理して、それをうまく表現できなければ、お客さんは誰もホームページを見てくれません。こういった点に細心の注意を払って取り組んでいるところが成功しているようです。
単にパソコンが操作できる人はたくさんいます。しかし、情報の流れをしっかりと把握して、自分の表現したいことを的確に表現できる人はまだ多くありません。
情報を活用して成果をあげるためには、パソコンを技術的な面からだけでなはく、一つの文化として捉える必要があると思います。」
パソコン教室で劣等生のレッテルを貼られながらも、何とか文字入力ができるようになったばかりのAさんにとって、Kの言葉は明らかにこれまでのパソコンに対する考え方を覆(くつがえ)すものだった。
確かにパソコンは苦手でも、自分たちの作っている製品の良さは知り尽くしているのだから、少なくともそれを紙と鉛筆を使って書くことはできる。必要だったら製品の写真を取る事だって、いとも簡単だ。
A 「そんなら、最初は情報集めからかよ?」
K 「そうです。自分のところの商品をもう一度見つめなおして、一つ一つキーワードを探し出してみてください。何事も最初は簡単なところから出発していきましょう。」
Kの叱咤激励(しったげきれい)をうけたAさんは、翌日、職場に陳列(ちんれつ)してある商品をまじまじと眺めてみた。たんす、テーブル、小物入れ・・・どれもこれもAさんと所員たちの知恵と工夫が盛りもまれているが、それらの商品をキーワードにしてみても、なかなかいい言葉がみつからない。
頭を抱え込みながら椅子に座り込んだとたん、そばに置いてあった一組の鳴子に目が行った。『最近、よさこい鳴子踊りは北海道や関東地域をはじめとして全国的な広がりを見せている』という新聞記事に触発(しょくはつ)されて、数ヶ月前から販売したばかりである。
「よさこいは高知が本場やけん、鳴子も高知が本場・・・」
「そうやねや・・・『本場の鳴子』でいこうか!」
それから数日後の夜、K宅を訪れたAさんの目は何やら輝きを増している。いきなりこう切り出した。
A 「あれから鳴子のことについていろいろ調べてみたけんど、知らんことがいっぱいあった! それらあをホームページで紹介したらどうやろうか!」
どうやらAさんは、鳴子のことについて、図書館などを訪ねていろいろと調査してきた様である。
鳴子は本来、紐(ひも)でつるして作物を害鳥から守るための農具であったこと。鳴子が戦後間もないよさこい祭りの当時から、踊りに使われていたこと。最近では、小中学校の運動会の踊りや、老人ホームでボケ防止の音楽療法としても使われていることなど、鳴子が思っても見なかったような使われ方をしていることに、Aさんは驚(おどろ)いた。
K 「鳴子をいろいろな観点から見直してみることは、とても大切なことだと思います。ホームページの中に、鳴子のことを総合的に紹介するページがあってもいいですよね。 たとえば『鳴子博物館』とか・・・。 それと、鳴子とパソコンとインターネットを通じて、さまざまな人が交流できるようなホームページはどうでしょうか?」
Kからも、いろいろなアイデアが飛び出した。 この夜、プロジェクトはいよいよ開始されることになった。
いくらホームページを企画して、その内容がすばらしいものであったとしても、ホームページを作るためには、それなりの技術力と膨大(ぼうだい)な作業量が必要だ。それに、パソコンとインターネットの使える通信回線も必要になる。 ...お金がいくらかかるかわからない。
Kの試算では、百万円以上かかるということである。
これにはAさんも途方にくれた。行政の福祉(ふくし)関係の部署(ぶしょ)に補助金を申請しても、なかなか認められそうにない。何とかお金をひねり出す方法がないかどうか、考えてはみるものの、妙案(みょうあん)は浮かんでこない。
数日後のある日、インターネットの展示会に見学に行ったAさんは、ひとつの展示ブースの前に立ち止まった。あるインターネット接続業者の展示ブースである。このブースでは最新のインターネット技術を駆使(くし)した展示が行われ、所狭しと並べられたパソコンの画面には、コンピューターグラフィック技術で製作された動画が滑らかに動いている。
「はぁーー。こんながができたらええねやー・・・」
思わずそうつぶやいたAさんに、一人の人物が声をかけてきた。
「ホームページの製作でしたら、承(うけたまわ)りますよ!」
物腰のよいこの中年の紳士は、この接続業者の課長さんだった。
A 「それが、金がないがです!・・・」
この課長さんに言ってもしょうがないことではあるが・・・と思いつつも、Aさんは初対面の課長さんに、せっかくいい企画が出来上がって、いざ取り組もうにも、予算も人材もないという現状をせつせつと訴えた。
課長 「その企画、考えさせていただけませんか?」
A 「やけんど、金がないがです!・・・」
課長 「今、インターネットの世界は始まったばかりです。これからどんどんよい内容のホームページを世の中に提供していく必要があります。お聞きしたところ、授産施設ということなので、私どもの福祉活動ということで、無償でホームページの製作のお手伝いをさせていただけることも可能かと思います。上部に相談してみましょう。」
一瞬あっけにとられたAさんだが、もしかすると予算なしでホームページが出来上がることになるかもしれないのだ。課長さんに丁寧(ていねい)にお礼を言って、Aさんはその場を後にした。
はやくも翌日には接続業者の課長さんから連絡があった。
ホームページの製作に必要なパソコンなどの機材や、製作スタッフを無償で2ヶ月間も提供するというのである!
小躍(こおど)りして喜んだAさんだったが、また、身の引き締まる思いもしてきた。
仮にも無償で製作してくれるのである。良質で内容のあるホームページを作って課長さんの期待に答えなければならない。ましてや、自分たちは儲けなくてはならないのだ。
そのためには、再度企画を検討しなおして、多くの人々に見てもらえるページにしなくてはならない。毎夜、Aさんは深夜まで企画の再検討作業に追われることになる。
「パソコンは文化である」
親戚のKの言った言葉が絶えず頭から離れない。ホームページを作ってくれる接続業者のスタッフに、企画の意図や自分の鳴子に対する想いを十分に解ってもらうことも重要なことだ。接続業者の事務所を訪れては、スタッフと綿密な打ち合わせをする日々がつづいた。
無論(むろん)、この間にAさんがパソコンの勉強を怠(おこた)っていたわけではない。ホームページに写真を載せるためにデジタルカメラを購入し、撮影した画像をパソコンに移したりホームページに合うように画像を加工したりする技術もマスターした。
はじめは苦手だったパソコンが、鳴子に対する自分の考えや想いを表現するためにはなくてはならない道具として、Aさんの目に映(うつ)りはじめていた。
ついに一九九六年一〇月「本場の鳴子」ホームページが完成した。
ページには、鳴子のことを紹介する「鳴子博物館」や顧客とのコミュニケーションをとるための「電子掲示板」など、鳴子という製品の魅力を通じて全国の人々が交流できる仕組みが数多く組み込まれることになった。
十分な企画を行わなかったら、商品カタログのようなページになってしまうところだが、このホームページは何かが違う。そんな予感を感じさせるホームページがついに完成したのである。
数ヶ月もしないうちに、Aさん宛に電子メールで全国から問い合わせが来るようになった。中には鳴子の注文もあったが、その多くは別の問い合わせだった。
「今度、地域おこしで鳴子を使った祭りを計画しているんですが、相談に乗ってもらえませんか?(宮城県)」
「鳴子踊りの踊り方を教えてください。振り付け師さんを知りませんか?(埼玉県)」
「鳴子踊りで使う山車(だし)を作ってくれる人を知りませんか?(大阪府)」
どれもこれも、直接鳴子の販売とは関係のない話ばかり。それでも、問い合わせの電子メールは日に一通だったのが、五通から十通へと増えていく。
「まだ鳴子の注文は少ないが、確かにこのページが『全国の鳴子の広場』になりつつある。鳴子を通じて全国の祭りを盛り上げる手伝いをしよう。そうすれば鳴子は必ず売れる。」
そう実感したAさんは、問い合わせの電子メールに丁寧に返信メールを書き続けた。
よさこいのシーズンは六月から八月である。祭りの始まる二ヶ月ほど前から、夕方になると公民館の駐車場や小学校の校庭などで、踊りの練習のために鳴子を鳴らす音が聞こえはじめる。
五月の連休前のことである。
突然、札幌の踊りのグループから鳴子の注文があった。百五十組の注文である。これを川きりに北海道内のいくつかのグループからまとまった注文が舞い込み始めた。いずれもホームページの電子掲示板で「仲間」になった人たちからの注文だった。
製品には自信がある。Aさんの下には電子掲示板を通じてユーザーのさまざまな要望が集められ、ハードな練習にも耐えられる「壊れない鳴子」の製品開発にも取り組んでいたのだ。
「あそこの鳴子は壊れない」
あるときはインターネットを通じて、そしてあるときは口コミで、施設の鳴子の評判が世界中を駆け回った。
連休明けになると、裁ききれないほどの注文が全国から殺到した。生産が間に合わない。信じられないほどの「注文の洪水」となった。
ついに、この年度には約一万組の鳴子の売上を記録した。 約七千万円の売上である。
その後も売上は順調に推移し、現在では県外の授産施設とも連携して鳴子の生産と販売が行われている。また、大手航空会社やテーマパークなどから鳴子の製作依頼も引き受けるようになった。
「授産施設が革命を起こした!」 Aさんの取り組みの成果は新聞紙上にも取り上げられ、全国各地の授産施設や地域おこし関係のイベントで紹介された。そのうち、Aさんは講演会の講師として招かれるようにもなった。
講演の中でAさんは言う。
「鳴子は私の文化です。その文化を支えてくださったパソコンの文化を持った方々や、インターネットの文化を持った方々がいなかったら、今の私はここにいなかったと思います。
いろいろな文化が協力して混ざり合って『本場の鳴子』のホームページができあがり、その新しい文化を皆さんと一緒に楽しめることができる自分を、私は本当に幸せだと思います。」